鐘撞山(油井城)

鐘撞山(油井城とも★★埼玉県加須市油井ヶ島

『埼玉の中世城館跡』(第2版)によれば、戦国時代の館で、「油井ケ島11」を所在地とし、現況は宅地・畑、自然堤防、遺構は堀・土塁とする。

『加須市史』は、「南東に沼を控えた平城で要害の地となっていた。約八千坪の面積を残し、土塁、空堀、水堀の一部が現存」と記している。

『新編武蔵風土記稿』は、「相伝ふ猪股小平六則綱が城跡ト云。鐘撞山と呼ぶ。今は山もなく陸田となりて、城蹟のさまは見えず」と記している。

猪俣則綱は鎌倉時代の武蔵七党・猪俣党の旗頭で、鎌倉の「由比ヶ浜」から正八幡神社を勧請したため「油井ヶ島」の地名が起こったといわれている(『加須市の地名』)。

『加須市史』は、『新編武蔵風土記稿』の水深村の記事を引用して、後北条氏に仕えた増田大膳(詳細不明、1545年戦死)の勢力が当地を経営したものと推定している。

『鐘撞山之記』によれば、永禄六年(1563)、上杉謙信が松山城救援のため出陣したがおよばず、転じて北条方の騎西城を攻めた時、この鐘撞山も同時に攻撃された。攻撃が急だったので、館中の兵はしきりに鐘を鳴らし騎西城に救いを求めたが、騎西城も謙信の本隊に攻められていたので鐘撞山を救援することができず、館兵は甲冑兵器を丘に埋め逃れたという(『加須市史』)。

ここから矢の根、鉄砲の玉、大身槍、陣鍋が出土し、油井ヶ島沼には陣鐘が埋まっているとの伝承がある(『加須市史』)。

現地は大きな旧家(市に寄贈されている)の周囲に堀がめぐり、その背後に小山が見られるが、どこまでが遺構なのかは分からない。空堀は屋敷を区画するもので戦国期の遺構かは疑問。また、小山には地主が建立した石碑があって『鐘撞山之記』が彫り込まれている。その史料的な信憑性は不明と言えよう。

 

  

(【左写真】入口にある城跡碑。すでに読めない。【右写真】説明板もある。これはありがたい。)

  

(【左写真】説明板の背後。ここが城域なのだろうか?【右写真】小山がある。頂上に石碑がある。)

 

(小山は鐘撞山の名残りなのであろうか?『鐘撞山之記』が彫られている。)

  

(旧家の周囲には堀が残っているが中世の遺構なのかは分からない。近世の屋敷堀とも見える。)

  

(【左写真】旧家の入口。だいぶ前に市に寄贈されたらしいが、荒れ放題となっている。【右写真】城跡遠望。)

  (2015年4月27日訪問)

 

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