大谷吉継陣跡
関ケ原の戦い

大谷吉継(吉隆)陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中)

親友・三成の懇請を受けた吉継(吉隆)は、死に装束で、ここ宮上に出陣してきた。松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地だった。

九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待ったという。

壮絶な死闘の末、吉継(吉隆)は首を敵方に渡すな、と言い残して自害した。墓は敵方の藤堂家が建てたものという(『現地案内板』)。

決戦を前に、”吉継”という名は、没落した「三好義継」と同音であり、縁起が悪いので、”吉隆”に改名したという(『烈祖成績』)。
この真偽は疑わしいが、それを引きずって、現在でも現地碑などは「大谷吉隆」の名が用いられている。

(跡地の航空写真)

  

(【左写真】大谷吉継陣跡碑 【右写真】大谷吉継墓所 )

◎平塚為広の碑

合戦当時垂井城主(一万二千石)だった為広は、吉継(吉隆)と親しかったため、大谷隊に加わっていました。

平塚・戸田両隊の小早川隊との勇戦ぶりは目覚しかったが、脇坂らの背反が加わり、味方の潰滅を見極めた為広は、辞世の句を討ち取った首に添えて吉継に届けさせると、藤川台の露と消えました。

それを碑裏に留めたのは子孫・定二郎です。
(『現地案内板』)

(平塚為広の碑)

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