柿木氏館-埼玉県-~城と古戦場~

柿木氏館

柿木氏館(かきのき★埼玉県草加市柿木)

『埼玉の中世城館跡』には「柿の木氏館」と表記され、室町時代の館とし、所在地は特定されていない。

『日本城郭大系』『埼玉県市町村誌』には記載は無い。

柿木氏は、室町時代の武士で、向畑合戦にその名が出てくる。

『埼玉苗字辞典』によれば、野与党の一族で、埼玉郡柿木村(埼玉県草加市柿木)より起ったという。同じ草加市には「柿ノ木」(カキノキ)と表す一族もある。
同姓は大井、三芳、鳩山、朝霞、新座、鳩ヶ谷、大宮、八潮、草加、幸手、越谷、児玉等に存するという。

『新編武蔵風土記稿』には、柿木村の村主・豊田氏について次の記述があり大変興味深い。

「(対岸の三郷市彦成に)観音堂ありて、此像は埼玉郡柿ノ木村惣兵衛が祖先豊田某が持伝へし像なり。某は下総国小金大谷口の城主高城下野守が臣にて、天正年中、高城氏没落の後、下野守が追福のために此堂を建立せりと。又下野守は千葉氏の一族なり、当所を領す故に、没落の後其臣等ここに土着せしと云ふ。鐙ありて高城下野守所持の武器にて、筐背に八条領柿ノ木村名主惣兵衛豊田氏の先祖納し由を記し、豊田吉蔵矩斎・豊田久左衛門矩秀・豊田弥三次義斎・豊田惣兵衛義矩を録す。吉蔵等は惣兵衛が分家にや」。

これによると豊田氏は中世の松戸市の高城氏の家臣だったというのだ。

柿木村は、天正三年(1575)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされ、その城主・豊田治親の夫人と子供が当地に土着したのを起源とするものが多いが、すでにその前に豊田氏が当地を領していたのである。

茂木和平氏は「野与党柿木氏は本名豊田氏か。」と記されている(『埼玉苗字辞典』)。つまり柿木氏は豊田氏のことを指すと思われるのである。

-柿木村について-

『武蔵国郡村誌』には「柿木村は古来、八条領に属し、天正十八年に徳川家康の代官の支配下になり、寛文三年忍城城主・阿部豊後守忠秋の提封によりこれに属した。「堤外」との字名があり、字宝耕地より字堤外に至る古利根川に堀があった」(抜粋)と記す。それが居館に由来するものなのかは不明である。

『新編武蔵風土記稿』には、「柿木村は徳川家康の関東移封以来、御料所だったが、寛永二年に阿部豊後守に賜れ、その後、子孫の鉄丸が領していた」(抜粋)と記す。

『草加市史』(民俗編)によれば、この地は人々が往来する街道に位置し、休憩に適した小丘があって、そこに大きな柿の木が立っていたが、元々この柿の木は往来する人が食べ捨てた柿の種によって育ったものだという。

柿木町発刊『柿木の歴史』によれば、柿木の遺跡は3箇所確認されており、また豊田仙太郎家の旧経塚跡からは15世紀末の六角宝幢型経筒が発見されている。

六角宝幢型経筒は明治初年頃まであった経塚の跡で面積60平方m、高さ4mほどのこの経塚は明治11年に発掘され、お経などを収めた経筒や刀子などが出土したという(『そうか事典』)。

下総国豊田荘の豊田氏は近親の者を柿木に移住させてその開発を行った。16世紀後半、天正三年(1575豊田城が落ちると豊田治親の夫人と2名の幼児はこの柿木に落ち延び帰農したとされる(『柿木の歴史』『柿木女體神社説明板』)。

-氏館の推定地-

柿木氏館の所在地は不明である。

村の中心部には豊田氏屋敷林(ふるさとの森)があって、いかにも城館跡に見える。ここは「シンゼエモンサマ」との屋号を持ち歴史が深そうである。中世豊田氏(柿木氏)が居館を構えていた可能性はあるだろう。

同屋敷の一角に「十三堂」というお堂(茨城の豊田氏夫人が持参したという仏像が安置されている)があり、その裏には墓所がある。そこに豊田氏の墓があり、「26代目」等の墓碑が見られる。はるか中世にさかのぼる家系であろう。すなわち、同地付近に代々の屋敷・館があった可能性を強く示唆している。

また、「六角宝幢型経筒」は豊田氏時代以前の所産だと考えられ、柿木氏に由来する可能性もある。そうすると旧経塚跡の付近(柿木女體神社周辺)に居館があったことも想定できよう。

なお柿木町の北側の千疋村には伊南理神社があり、「柿ノ木村(現草加市)との境にあたるが、神社裏には十二塚と称された塚があり、戦国期の戦死者を葬ったと伝えられるが、いまでもその一つが残されている。」という(『現地説明板』)。現在この塚は確認できないが、柿木氏や向畑合戦に関連するかも知れない。

-史料上の柿木氏-

永正元年(1504八条郷地頭・八条惟茂は新方荘に侵入し、新方頼希を破り、この地を奪ったという。

日本城郭大系』も採用しているが、この向畑合戦『大松村栄広山由緒著聞書』(清浄院所蔵)に唯一記載されているものである。

それによれば、文亀四年(1504)正月八日、葛飾東新方領主向畑城主・新方次郎太夫頼希との争いがあって新方郷に攻め込んだ。新方勢は同じく手勢を率いて向畑城に出馬して小林郷に対陣して数日間合戦があった。同月晦日、新方頼希が兵を進めて大いに血戦して、一旦は八条氏を打ち崩したものの深追いして流箭のために命を落し新方家は敗北した。

永正十七年(1520)十月、新方頼希の兄の高賢上人(清浄院)は、縁者を集めて向畑城に夜討ちをかけ、八条氏家臣別府三郎左衛門が討死して城を奪還した。

永正十八年(1521)正月、八条惟茂は自身で千人を引き連れて本陣として、先陣に青柳外記、小作田隼人、柿木小膳ら850人、二陣に大相模飛騨守、西脇左近右衛ら500人とともに別府郷へ出陣。ここに新方勢が夜討ちをかけ、別府氏、青柳氏、柿木氏らが総崩れとなった。
八条惟茂の叔父・大曽根上野介も
大相模へ出陣しており別府へ駆けつけて新方勢の背後を襲って優勢になった。
しかし、新方勢の安国浄恩の兵が大曽根上野介の背後を攻めて大乱戦となった。小作田隼人が身代わりとなって討死して八条惟茂はからくも八条郷に逃げ帰ったという。八条勢は850余人、新方勢は324人が討死したという(『大松村栄広山由緒著聞書』(清浄院所蔵)『武蔵七党系図』)。

 

   

(【左写真】柿木町の地図。中央に複雑な区画の屋敷林がある。【右写真】豊田氏屋敷林。中世まで遡ることのできる屋敷であろうか?

(屋敷林の隣にある十王堂。天正三年(1575)常陸国豊田城が落城の際、城主の豊田夫人が柿木に落ち延びるとき背負ってきたという十王像が安置されている。)

 

(【左写真】屋敷林の南側にある八坂神社。【右写真】八坂神社の由緒や寄付者に柿木氏の名は見られない。しかしここが柿木氏の居館跡であったとしてもおかしくはない。)

 

柿木女體神社豊田氏は信仰心厚く、殊に筑波山女体神社を崇拝していた。それにより分霊をこの地に勧請して創建されたのが当社であるとされ、社殿も北方、筑波山に向けて建てられていると伝わる。ここも候補地のひとつである。

六角宝幢型経筒

市内では、柿木町に明治初年当時、面積60平方メートル、高さ4mほどの経塚があった。1878(明治11)年5月に発掘され、経筒1基、刀子などが出土した。経筒は、一般には円筒型の容器であるが、出土したものは1枚の銅板を折り曲げて六角形の筒状にしたものだった。学術的にも貴重なことから、1976(昭和51)年11月に市の文化財に指定。経筒は出土当時から頂蓋部が失われており、六面が折れ目で切れ、6枚の長方形の側面と六角の底部に分かれた状態となっている。側面のうち3枚に釈迦如来像や「奉納経王一国六部」「三十番神 当年今月吉日」「十羅刹女 播州之住快円上人」の文字が刻まれている(『そうか事典』)。

 

豊田仙太郎家の旧経塚跡から出土した。かつては説明板もあったらしいが今は無い。柿木氏の遺物の可能性も十分あろう。)

 

(【左写真】千疋村の伊南理神社【右写真】裏手には戦国期の戦没者の塚があったというが確認できない。柿木氏に関係したものかも知れない。)

  (2015/2/17、4/29訪問)

 

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