渋江氏館

渋江氏館(★埼玉県さいたま市岩槻区本町5丁目)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)によれば、平安末の館で、「村国道相」を所在地とし、現況は山林・宅地、台地で、遺構は堀と記している。

渋江氏(渋井とも)は、渋江郷を本貫とした野与党の一族で、渋江平五郎が起源とされる。『吾妻鏡』によると建保元年(1213)には渋江氏は八条郷の地頭であって、その後、八条氏も名乗った形跡がある(『野与党略系図』)。
建久元年(
1190)の源頼朝の上洛に際して、隋兵として箕勾経光、渋江経遠兄弟が同行した(『吾妻鏡』)。 

渋江氏は戦国期には岩槻武士となった。『新編武蔵風土記稿』は「太田美濃守資頼当城にありし時、家人渋井三郎といひしもの、ひそかに北条左京大夫氏綱にかたらひ内応せしかは、大永五年北条勢攻囲みしにより、城主太田資頼もふせぎかねて二月六日に城落いれり。其後享禄四年の九月資頼再び軍勢を催し当城を攻けるに此度は渋井三郎もふせぎかねて見えしが、二十四日終に討死す、よりて又資頼が持城となれり」と記している。

その後は後北条氏に従ったらしく、岩付の馬上奉行として渋江式部大輔の名が見える(『豊島宮城文書』)。

渋江郷は角田川、荒川の西側にあり、そこに野与党一門が建立した渋江寺(浄安寺か)があり、近世においても付近には渋江の地名が残っていた(『岩槻市史』)。

また『岩槻市史』は、市内の「城山」(岩槻区府内3丁目)に、築堀(つくりぼり)と呼ばれる土塁があって往時の城館をしのばせる。さらに、付近には「渋江鋳金師」の宛名のある古文書を蔵していた斉藤家があり、渋江氏の城館跡の可能性を指摘している。

浄安寺の山門前に「渋江町」の石碑が立っている。付近に遺構は無さそうである。

 

 

(【左写真】付近の交差点に「渋江」の名が残る。【右写真】浄安寺の山門前に「渋江町」の石碑が立っている。)

  (2015/6/18訪問)

 

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