源経基館-埼玉県-~城と古戦場~

源経基館

源経基館(★★埼玉県鴻巣市大間)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、平安末期の館跡で、「大問原1029」を所在地とし、現況は山林・宅地、台地で、遺構は堀・土塁、郭と記している。

源経基(みなもとのつねもと)は、清和天皇の皇子貞純親王の子で、親王の第六子にあたるので六孫王と号した。天性弓馬の道に長じて武勇をもって知られ、源姓を賜って源朝臣を称したものの、武蔵介となって関東に下り、その居館を鴻巣に構えたとされる(『現地説明板』)。

俗に城山とも浅間山とも呼ばれ、大部分が山林となっている。館の主要部分は東西95m、南北85mの方形館で、低地に面する西辺を除く三方に土塁と堀が良好に残っている。東辺で堀の幅約10m、掘底から土塁頂部まで約3mを測る。一方、西辺は土塁を欠いているが、郭内と低地との比高差が4.5m程あり、斜面をきつくすることにより防備したものであろう。北西側は、断面箱薬研を呈する堀が24mに渡って検出された。堀からは中世の陶磁器片が出土したのみで、館の正確な築造時期を知ることはできなかった(『現地説明板』)。

『新編武蔵風土記稿』は、『将軍記』に記載されている「経基之営所」をここに比定する説を載せているが確証はないとし、扇谷の長臣・箕田氏の館跡という説も述べている。

『鴻巣市史』は「いずれにせよ、主を変えながら、使われ続けた居館だったのであろう」と記している。

館跡は遺構の少ない埼玉平野の城館の中でもとても良好に残存している史跡である。かなりの広さの郭と、それを四周する土塁、その外側の空堀が良く残っている。空堀は屈折した複雑なもので、戦国期にも改修されたのであろう。

 

 

(【左写真】『埼玉の中世城館跡』掲載の概念図【右写真】郭はかなりの広さを有している。)

 

(【左写真】物見台のような一段高くなっている土塁。【右写真】土塁から郭を見下ろしたところ。)

 

(【左写真】土塁上の石碑。【右写真】外側には空堀がよく残っている。)

 

(【左写真】空堀。折れている。【右写真】このあたりは複雑に屈折している。戦闘的な作りだ。)

(土塁は三方に良く残っている。土橋のようなものは無かった。)

 

  (2015/12/30訪問)

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