石田堤

石田堤(★★埼玉県鴻巣市袋字台3261)

天正18年(1590)の関東平定において、忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000が忍城に立て籠った。攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかった。そのため、三成は忍城を望むことができる丸墓山(現・丸墓山古墳)の頂きに本陣を構え、水攻めを発案し、忍城周囲に総延長28kmにも及ぶ堤を築いた。

総延長28kmに及ぶ堤をわずか1週間で作り上げたと言われるが、実際には自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われる。堤が完成した後、利根川荒川の水を引き入れたが、城にはあまり水が溜まらなかった。

その後、増水したため、堤が決壊して石田方に多数の溺死者が出て、水攻めは失敗に終わった(Wikipedia)。

鴻巣市の跡地は「石田堤史跡公園」として整備されている。一部によく堤が残っている(どこまで復元したのかは明確でないが)。また堤の断面も見学できるようになっている。周辺には説明板なども充実しており、北側にある「堀切橋」は、堤が流れ壊れた場所だという。

 

 

(【左写真】石田堤。良く残っているが、どこまでが復元なのだろうか?【右写真】反対から見た堤。)

 

(【左写真】堤が途切れている部分もある。後年に破壊されたのか。【右写真】堤の先端部。この先は破壊されたようだ)

(堤の断片が見学できる。なかなか親切な公園。)

 

(【左写真】堤の上。見晴らしがいい【右写真】石田堤公園。こちらには遺構は無さそうだ。)

公園北にある堀切橋。この付近の堤が流出したという。)

 

  (2015/12/30訪問)

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城と古戦場 

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