笠原氏館

笠原氏館(★埼玉県鴻巣市笠原)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、鎌倉時代の館跡で、所在地は不明とし、遺構は無しと記している。

『新編武蔵風土記稿』の「埼玉郡笠原村(鴻巣市)条」には「東鑑に笠原六郎、笠原十郎左衛門尉親景など、いづれも当国の人と聞ゆれば、則ちここに住して、在名を名乗しにや」と記している。

しかし笠原六郎は、建久六年(1206)の源頼朝の東大寺供養に随兵しているが、小室・禰津、小田切などの信濃衆と列しているので信濃武士とみられる(『鴻巣市史』)。また笠原親景は建久三年(1203)の比企の乱で戦死しているが、当主・笠原能員は信濃国の総追捕使であったことから信濃武士と深い関係を持っていたという(『鴻巣市史』)。

また与野党に「笠原氏」の名がみえる(『与野党系図』)が、これは道智氏の系図を援用しており、また『武蔵七党系図』に笠原氏の名がないことから、そもそも与野党笠原氏は存在しなかった可能性が高いという(『鴻巣市史』)。

つまり、当地に笠原氏を名乗る中世武士が存在した確証はなく、『新編武蔵風土記稿』の誤記と推認される。

信濃笠原氏は、信濃国高井郡笠原村(中野市)より起った(『埼玉苗字辞典』)。『源平盛衰記』に「信濃国住人笠原平五頼直」と記され、『吾妻鑑』に「治承四年九月七日、笠原平五頼直、木曽を襲はんと疑す」「建仁三年九月二日、比企能員の婿・笠原親景など、比企一族は全員敗死す」と記されている。

笠原親景の子は比企郡野本村(東松山市)の齋藤氏流野本氏の養子となって野本次郎時基と名乗ったという(『尊卑分脈』)。その子孫が鴻巣に移り、江戸時代『新編武蔵風土記稿』の記事を生んだのであろうか?

 

 

(鴻巣の笠原の地。ここの豪族はいたのであろうか?)

 

  (2015/12/30訪問)

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