寿能城

寿能城(★埼玉県さいたま市大宮区寿能)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、戦国期の城跡で、「寿能2丁目」を所在地とし、現況は宅地・山林、台地で、遺構は無く、太田資忠墓碑が建立されていると記している。

永禄三年(1560岩槻城の支城として築かれ、東、南、北面を見沼に面した自然の要害で、太田三楽斎資正の第四子・潮田出羽守資忠の居城であったという。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際落城。現在の寿能公園は、かつて寿能城の本丸があった場所で、墓碑のある塚が物見櫓の跡と伝えられている(『大宮の文化財』)。

『新編武蔵風土記稿』によれば江戸時代には周囲に土塁が残っていたが、郭の中はすべて林になっていた。

『江戸名所図絵』は「五六丁四方の岡なり」と記している。

『北沢家文書』(大正十五年)によれば「寿能の浮き城」「潮田山」「寿能山」と呼ばれ、『埼玉県史』によれば「ジュノウ城は洲の城」を語源とし、『東角井家文書』は「神野原」(氷川神社の原)と元々呼ばれていたと伝える。

『大宮市史』は、城の中心は公園となって面影を失ったが、見沼田を望む周辺には土塁らしき段違いの堆土があって、現在の道路も往年の土塁跡の可能性を指摘している。また東北約800mに位置する大和田陣屋と舟で連絡を取り合っていたと推定している。

 

 

大和田陣屋と寿能城の位置取り。『大宮市史』より)

 

 

(【左写真】寿能公園。高低差が認められる程度。【右写真】太田資忠墓碑。物見台の跡ともされている。

 

(【左写真】公園にある由来碑。【右写真】近くの交番にある城址碑。)

 

  (2016/1/3訪問)

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城と古戦場 

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