足立氏館

足立氏館(★埼玉県さいたま市西区植田谷本)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、平安末期の館跡で、「植田谷」を所在地とし、場所は不明で、遺構も無く、足立遠元の館と記している。

同1版(『埼玉の城館跡』)は、平地のみとする。

足立遠元(あだち とおもと)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府創立の功臣の一人で、武蔵国足立郡地頭職として足立氏発展の祖となり、幕府長老にぐされた。館跡は現在の桶川市やさいたま市など数か所にある(Wikipedia)。

『大宮市史』によれば藤橋の西岸の「六部堂」の西側一帯を館跡としている。館跡は鴨川に囲まれたほぼ正方形で、小島稲荷が残っており、南の道は「馬場道」と呼んだという。

また、館跡の南400mには足立氏が勧請したと伝承される島根の氷川神社があり、この神社はもともと小島氏の屋敷内にあったという(『新編武蔵風土記稿』)。
林光寺西の小島勘太夫屋敷は「あだち殿の御屋敷」と呼ばれ、往時の足立遠元の館を屋敷にしたといい、小島氏は足立氏の後裔との説がある(『小島文書』『足立郡司と足立氏』)。

『大宮市史』は「果たして足立屋敷は、古里にあったのか、もと勘太夫家であったのか、なお検討の余地がある」と締めている。

水判土館の南の足立神社には館跡の説明と地図が掲示されている。推定地は二か所あるが、いずれも遺構は見られない。


 

『大宮市史』より)

水判土館の南の足立神社には館跡の説明と地図が掲示されている。)

 

 

 

 

小島勘太夫屋敷が氏館跡地との説があり。

(【左写真】小島勘太夫屋敷遠望。【右写真】屋敷跡には大きなクスノキが樹勢豊かである。

 

 

 

(【左写真】藤橋の西岸の「六部堂」。【右写真】「六部堂」西の館跡とされる一帯。それらしいものは見られない。

 

  (2016/1/3訪問)

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