金子氏城

金子山城(金子山、金子山城、金子氏館、高野陣屋とも★埼玉県さいたま市西区高木)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、戦国末期の陣屋跡で、「高木根貝戸」を所在地とし、現況は宅地・山林・畑、台地で、遺構は堀道と記している。淡島神社が建立されているとする。

同1版(『埼玉の城館跡』)は、遺構は無し、築城年代は不明、城主は伝・金子氏、高野隼人とし、「金子山の名は金子十郎家忠の一族が移り住んだためにつけられたといい、30年ほど前までは台地に北側に二尺の構え堀や、屋敷の下に抜け穴らしいものがあったという。近世初頭、高野隼人がこの地に土着したというが、陣屋との名称から考えると同時に領した山内氏の在地支配の陣屋を兼ねていたのではないかと考えられる。」と記す。

『大宮市史』は、標高61m、比高7mの台地で、三方を水に囲まれた要害の地という。
武蔵七党のひとつ村山党の一族金子氏の館とされるが、住民の名前は逸しているものの、金子彦十郎某と口碑に伝えられ、川越氏と争って負傷して館に戻る前に、館の井戸に投身して死んだという。もちろん史料の裏付けはないが、金子一族の居住地であることは認めていいという。
その後、近世初頭に豊臣氏の旧臣・福田又左衛門とともに高野隼人が館跡に住み着いたと伝わり、「豊臣の遺臣ゆえに、要害の地に住むことは疑いをかけられてしまうことともなるので、旧態の要害の構えをこぼってしまったのかも知れない」と記している。

また、「現在金子山は東西から切り崩され整地されて住宅地化しつつあり、早晩その面影は失われてしまうに相違ない」と締めくくっている。

現在は淡島神社が残り、周辺は段々のある耕作地となっている。諸サイトによれば空堀の遺構が残っていたようだが、淡島神社の西脇に堀道が一部残っているだけで、『大宮市史』のいうとおり今ではほとんど消滅してしまったらしい。

 

(『大宮市史』より。)

 

(【左写真】『埼玉の城館跡』に掲載されている昭和中期の写真。【右写真】現状。かなり地形は変わったようだ。

 

(【左写真】城址に祀られている神社。【右写真】このあたりは数段の郭跡だと思われるが面影はない。

(神社左手に見られる堀のような道。遺構だろうか?)

 

  (2016/1/3、2016/5/7訪問)

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