吉川広家陣跡
関ケ原の戦い

吉川広家陣跡(岐阜県不破郡垂井町宮代)

吉川広家は、毛利元就の次男・吉川元春の子。文禄・慶長の役では石田三成と対立した。

関ヶ原合戦では、西軍の敗北を予想しながら、本家の輝元が西軍に属したため、主家の存続をはかり東軍に内応した(『現地案内板』)。

合戦当日、南宮山の麓に陣を構え、毛利隊が合戦に参戦するのを押し止める役割を果たした。
しかし、合戦後は広家の思惑がはずれ、毛利氏は大幅に領地を削減されることとなったという(『現地案内板』)。

吉川広家は、本家・毛利秀元の家康攻撃を自粛させていたが、次々に毛利軍の出陣を促す石田側の使者に対し、秀元は「兵に食事を摂らせている」と弁解して時間稼ぎしたという。
これを称して
「宰相殿の空弁当」と呼ぶが(『編年譜』)、それが事実かは疑問。


(跡地の航空写真)

 

(吉川広家陣跡)

 

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