福田氏陣屋

福田氏陣屋(☆埼玉県さいたま市西区高木)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、江戸初期の陣屋跡で、「高木519」を所在地とし、現状は宅地・畑・山林、台地で、遺構は無いと記している。福田稲荷が建立されているとする。

同1版(『埼玉の城館跡』)は、台地で面積は1650平方メートル(500坪)の長方形、築造は江戸初期、福田又左衛門惟康で、福田家の私有地となっており、福田又左衛門の墓所も現存するという。しかし陣屋の遺構は無いとする。
また、「福田家位牌によると、福田家はもと豊臣氏の臣で江戸初期当地に土着して開発に従事したという。但し陣屋と称したのはこの地が山内氏領地となったころ、福田屋敷が在地支配の役所を兼ねたためであろう。」と記している。

『新編武蔵風土記稿』は、「陣屋蹟あり。古へ福田左衛門惟康と云ふものの住せし地なりといへり。惟康は当村の名主・惣兵衛が先祖と云ふ。広さ三町四方程の地なり」と記している。

『福田家譜』は、「福田左衛門惟康は北面の武士で、惟康十八代の孫・又左衛門長之は豊臣秀吉に仕へ、秀頼の時に関東に下向し北野貝戸村に土着し初代となる。二代善右衛門は埼玉郡下郷地村中根弾正の二男で、又左衛門の娘と結婚し宝来村開発に功績あり。善右衛門の二男善右衛門は村内に分家し豪農となる」と記している。

福田氏は、大和国平群郡福田庄(奈良県斑鳩町)の出自だという(『尊卑分脈』『埼玉苗字辞典』)。

 

現地は福田氏の御厚意により「福田稲荷ふるさとの森」として公開され、地図にも掲載されている。しかし、周囲は大きく開発されており、その地まで到達することができなかった。諸サイトに「難攻不落」と評されている所以であろう。改変の波が迫っているが、陣屋の面影が後世に残ることを祈りたい。


 

(【左写真】埼玉の中世城館跡』より。【右写真】陣屋の遠望。どうしても森まで辿り着く道が無かった。)

 

  (2016/5/7訪問)

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