新畑陣屋

新畑陣屋(★埼玉県さいたま市中央区上峰4丁目)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、江戸初期の陣屋跡で、「桜丘2丁目」を所在地とし、現状は道路、台地で、遺構は堀と記している。

『円福寺文書』に「本田(ママ)佐渡守之時代、手任せに堂寺破、其跡に陣屋御立て也」と記されているが、『与野市史』は、「この台地上に陣屋を構えたとしても、その正確な位置が不明」とし、「バイパス工事の際の一条の堀の発掘のみでは、まだ十分とはいえまい」「遺構と推測されるところが新大宮バイパスによって縦断されてしまい、現状のみを見ると伝承さえ信じられないくらいである」としている。

さらに「徳川家康の謀臣として名高い本多佐渡守正信の陣屋」との伝承があるが、疑いなきを得ないと述べ、「その根拠は現在なお実証できない」という。正信は玉縄城を居城としており、当地に拝領を受けた史料は見当たらないとし、『円福寺記録』に家康入部に伴って手当たり次第に堂宇を破壊して陣屋にしたと記されているが、これは寺の荒廃を本多氏に転嫁した事実無根の話しだという。

さらに情緒的に「既に15世紀初期には与野には市場が開かれ、この町の将来の宿場としての発展は約束されているようである。築城術の粋を尽くした名城の跡でさえ今はむなしく草木に埋もれ訪れる人も稀な所が少なくない。与野市内の小城館跡に霊があるなら、自己のありようと在地の発展の趨勢とを対照して、苦笑しながら自らの運命を甘受して了承するに違いない。」と締めくくっている(『与野市史』)。

『新編武蔵風土記稿』は、円福寺について「某略に中古本多佐渡守此邊へ陣屋を構へ、堂宇を破却せしゆへ、再び営建するよしをいへり。」と記しているが、これは『円福寺文書』によるものであろう。

跡地は円福寺の南西で、バイパス脇の児童公園付近で堀が検出されたという。現在は何の面影も残されていない。

『埼玉の城館跡』(第1版・昭和43年)に掲載の古写真)

 

堀が検出されたという児童公園と本多正信に関する史料を有する円福寺。遺構は見られない。)

 

  (2016/4/29訪問)

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