水野屋敷

水野屋敷(小室陣屋とも★埼玉県川越市小室)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)には、江戸初期の屋敷跡で、「小室町蔵塚495」を所在地とし、現状は宅地、台地で、遺構は無く、法心寺が関連地と記している。

同1版は「家康関東入国後、玉縄城を預ったという水野忠守が、領地の関係で当地に陣屋をおいたものと考えられる。なお隣接の法心寺は水野氏の中興という。」とする。

『入間郡誌』は「伝へ言う、長禄元年、水野多宮の移住するや、村民漸く集り人口増加す。或は曰く、小室の名称は水野氏の法号に出づ。思うに、水野多宮と称する人の此地に住せしことあるは事実ならん、年代事蹟未だ必ずしも明白ならざる也。
 氷川神社は宮の腰にあり、伝へ言う、水野多宮は太田道灌の旧友也、川越築城の時、此地に移住し氷川神社を勧請したり。氷川神社に関する伝記によれば、水野多宮は法心禅寺の開基、文明十年正月十五日卒す、時に九十五歳、法名小室院月叟法心居士と称す。徳川氏の臣・水野越前守の祖先なり。」と記している。

『水野家譜』は「水野多宮守重は、織部忠守の次男なり、法名は宗三、父忠守が法名を芳心と云、御入國の後玉縄の城を守れり」としている。

『新編武蔵風土記稿』は「水野屋敷跡 法心寺の地続きにして南の方なり、今は陸田」と記し、『入間郡誌』も「法心寺の南に水野屋敷跡あることを記したり、今は明ならず」としている。

法心寺の付近に屋敷があったらしいが、すでに江戸末期には消失していたようである。

(参考サイト・城郭図鑑 そこに城があるから 城跡ほっつき歩記 埼玉の古城址

 

法心寺の付近に屋敷があったらしいが、すでに江戸時代には消失していたようである。

 

  (2016/5/7訪問)

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