川越夜戦跡
川越夜戦跡(★埼玉県川越市志多町) 東明寺は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。このあたりからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成されており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在した。天文十五年(1546)四月に戦われた上杉・北条軍の川越夜戦は、一名、東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺領と境内で争われたものである(『現地説明板』)。 北条氏康が八千騎を率いて援軍としてかけつけ、4月20日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、東明寺口を中心に激しい市街戦となった。多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に耐えられず散々となって松山口に敗走をはじめ、この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちのびたと伝えられている(『現地説明板』)。 『新編武蔵風土記稿』は、当寺の稲荷諏訪天満宮三社について、「塚上にあり、この塚は天文十五年當所夜軍の記に、難波田弾正が東明寺口の古井に陥て死せしと見えたるは、此所にて廢井を埋みてその上へきづきし塚なり」と記している。 東明寺の付近が激戦地と伝承されている。境内には説明板や石碑が整えられている。 |
(石碑。裏面には合戦の概要も彫り込まれている。)
(2016/5/7訪問)