菅谷北城

菅谷北城(★埼玉県上尾市菅谷二丁目)

『埼玉の中世城館跡』は、室町時代の館跡で、「菅谷東中通り48」を所在地とし、現状は宅地・畑・山林、台地で、遺構は堀・土塁と記している。また「区画整理により北辺の堀、土塁は消滅しているが、これと並行して南側に見られる遺構は良好な状態で残っている」と記している。

『上尾市史』は「現在までに確認されている最も古い城館跡は菅谷二丁目の菅谷北城」と記している。

鳩谷氏説

『新編武蔵風土記稿』は、「古城蹟ありて、按に坂田村旧家与右衛門が先祖加藤氏は、元鳩谷修理といえるものの臣下なりしが、修理・其地を棄て当村に移りしと云ふことを彼家に伝へり。此地もしくは修理が居跡なるにや。凡そ四方二町余にして北の方に堀の跡とおぼしき所あり、又この曲輪ともいうべき堀の跡あり、何人の居跡なりや来由詳らかならず」と記している。

『埼玉の城館跡』は、「旧坂田村加藤氏の言い伝えとして、その主の鳩谷修理なるものが当村に移り居住した」として『新記』の説を引用し、また、菅谷北城の北側の堀の東端あたりを「かまいぼり」と呼んでいたとしている。

『埼玉苗字辞典』は、旧坂田村加藤氏について「同郡坂田村(桶川市)当村に此氏多く存す。旧家加藤与右衛門が先祖は鳩谷修理の臣下なりと伝へる。」と記している。 

『鳩ケ谷の歴史』(白石敏博)は「菅谷村にも鳩谷修理なる人物が見える。言い伝えのみなので確かなことはわからない」としている。

春日氏説

『新編武蔵風土記稿』は、当村の記事として、「尊氏より与へし下文あり、其文に、春日八郎行元・可令早領地武蔵国足立郡桶皮郷内菅谷村丸七郎跡事・観応三年(1353)九月十八日と載せたり」と記している。これによると春日行元が武蔵野合戦の勲功により菅谷村(上尾市菅谷)を宛行われており、『旧埼玉県史』はこれを根拠に、春日氏が菅谷北城を築城したとの説を主張している。

『上尾市HP』は「菅谷北城の発掘調査はこれまでに3回行われており、堀跡が検出された他、14世紀から15世紀にかけて焼かれたと考えられるカワラケや、常滑系の大甕が出土した。これらの遺物は、文献資料と近い年代を示しており、文献が伝える菅谷北城がこの地である可能性が高まったと言える。」と記し、春日氏説を支持している。

『寛政重修諸家譜』(『春日氏家譜』)は、春日氏について、「中納言長良が孫・飛騨判官代為孝はじめて春日を称す。行元は其後裔なりといふ。」と記し、その子孫は後北条氏、徳川家康に従属したとする。

現状

現地は広く宅地・耕作地になっている。遺構は散在している状況で、所々、それらしい地形が見られる。しかし、いずれ時の流れにまかせ、その様相も伝承も失われていくのだろう。

(参考サイト・儀一の城館旅

 

(『埼玉の城館跡』掲載の概念図)

(『埼玉の中世城館跡』掲載の概念図)

 

(【左写真】北中地公民館。正面に土塁・堀が残っていたらしいが消滅している。【右写真】公民館東の雑木林。土塁らしいが藪でよく分からない。)

 

(【左写真】北端の土塁があった場所。【右写真】民家・農地の中にクランク状の土塁があったという。今は部分的でよく分からない。)

 

  (2016/9/23訪問)

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