柴田七九郎陣屋

柴田七九郎陣屋(★埼玉県上尾市向山)

『埼玉の中世城館跡』は、江戸初期の陣屋跡で、「向山1-422」を所在地とし、現状は宅地、山林、台地で、遺構は堀・土塁と記している。

『新編武蔵風土記稿』によれば、柴田筑後守康長が創建し、その孫・和泉守康利が江戸に転居するまで三代の陣屋で、宝永年中(1704-1710)には御林になっていたという。

現在の明神神社付近が跡地とされている。今は住宅地となって何の面影もうかがえない。

柴田氏について

柴田康長は康忠の子(ともに通称:七九郎)。父を亡くした幼少の頃、家臣が土地を略奪などしたために改易、下野国足利に住む。大坂の両陣で秘かに伊達政宗軍に加わり、元和九年、勘気を解かれ、寛永元年、武蔵国足立郡のうちに三千石を賜った(『寛政重修諸家譜』)。父とともに上尾市の十連寺に葬られている。

『寛政重修諸家譜』は、柴田康忠の「七九郎」について次のように記している。

永禄六年(1563)の三河一向一揆、上和田砦において、射撃に長じていた康忠は矢に自分の名前を記していたが、その矢により数十人を打ち取った。敵はこれを感心して、死者の名を列記したものとともに、康忠の放った矢63本を返してきた。家康はこれを見て、その武勇に感じ入り彼を「七九郎」(7×9=63)と命名した。 

(参考サイト・儀一の城館旅

 

遺構は何も遺されていない。)

 

  (2016/9/23訪問)

戻る

城と古戦場 

inserted by FC2 system