志筑城

志筑城(しづく・茨城県かすみがうら市中志筑)

鎌倉時代、源頼朝の家臣・下河辺政義(後益戸氏)が、養和元年(1181)頼朝に叛いた浮島の信太義広を討ち、その功により茨城南郡の地頭となり、この地に城を築いたのに始まる(『城址案内板』)。

南北朝時代、五代の顕助、国行父子は、小田城主・治久と共に南朝方に属し、北朝方の石岡の大掾高幹としばしば戦いを挑み、半年間も戦闘を続けたが興国二年(1341)十一月小田落城の報を聞き、翌日六代国行は城を捨てて一族の小山氏のもとへ走り、その後も南朝方のために忠勤をはげんだという(『城址案内板』)。

その後、廃城となっていたが、慶長七年(1603)佐竹氏の国替えに伴い、出羽国(秋田県千畑町)より当地へ移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となって、正保二年(1645)ここに陣屋を構えて廃藩置県まで本堂氏十二代の居城となっていたとされている(『城址案内板』)。

この城跡は、三方が深田に囲まれ、南側の自然の堀割を擁した天然の要害で、土塁など鎌倉時代の築城方式を今に残している(『城址案内板』)。

城跡がそのまま志筑小学校になっていて、土塁が残る。


(跡地の航空写真)

  

(【左写真】城跡(志筑小学校) 【右写真】土塁跡 )

 

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