藤沢城

藤沢城(茨城県土浦市藤沢)は、新治郡新治村大字藤沢の城の内にあった。

丘陵地であり、面積約9900u、東西500m×南北500mの規模で、北方には一条の通路があり、他の三方には空堀をめぐらしていた。
外郭にも空堀をめぐらし、懸崖は長さ60mで、周囲は原野になっている。城郭は方形で、南方の崖の中腹に横穴があり、その入口の直径は1,5m、深さ50mで東方の物見台に通じている。物見台の広さは1haほどである。
現在、畑地で、周囲は原野となっており、空堀が残っている
(『日本城郭大系』)。

藤沢城は、南北朝時代から戦国時代の終わりまで小田城の支城であった。小田城の政務所とも伝えられている。
永禄八年(
1565)小田氏治は上杉謙信と小田天王常で戦って敗れ、藤沢城に敗退したが、のち居城を回復した。しかし、同十四年には再度藤沢城に移っている(『日本城郭大系』)。

天正二年(1574)常陸片野城にいた太田三楽斎資正によって小田城は攻められ、氏治はまた藤沢城に移ってきたが、その後、再び小田城を奪い返した。
しかし、同十八年、豊臣秀吉軍によって小田城は攻められ、氏治はやむなく土浦に落ちた。のち手子丸城に入り、結城に遁走したため藤沢城も廃城となったという(『日本城郭大系』)。

『日本城郭大系』では心もとないので、「埋もれた古城」を参考に訪城。主郭部は民家の畑となっており解説板も何も無い。周辺の住宅地に土塁が散見される程度である。


(跡地の航空写真)

  

(【左写真】主郭跡(畑となっている) 【右写真】主郭(左)西側の堀跡 )

 

(【左写真】主郭土塁(手前が堀跡) 【右写真】主郭土塁(民家に残る)

 

(【左写真】神宮寺(二郭)に残る土塁 【右写真】中城(三郭)左側に土塁が残る)

 

(精泉寺裏に残る外郭土塁)

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