広沢堂山

広沢堂山(★埼玉県朝霞市本町5)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、年代未詳の陣屋で、「栄町1丁目」を所在地とし、現状は学校・畑、台地で、遺構は無いと記している。

ここに城館があったのかは明確ではないが、当地には字「広沢の堂山」との地名が伝わっている。

『新編武蔵風土記稿』は「天正十八年(1590)、北条氏照が城山合戦の時、煙を上げんとして、観音堂を焼きしと云い、今は礎石のみ残り、土俗にその地を堂山と宇す。」と記している。(この合戦は入間郡城村、滝の城ヵ)

また『新編武蔵風土記稿』は、現在の観音堂(広沢観音)よりも「南の方なる山上」と記している。

また古く、当地を領した広沢氏が存在していた。平安時代末期の相模国の武将・波多野義通の子・広沢与三実方が、保元元年(1156)冬十月十日広沢郷を拝領され広沢を名乗ったという。同人は、建久三年(1194)七月二日には、備後国三谷郷を拝領され、三谷郡和智村(広島県三次市和知町古城山城ヵ)へ移住したという(『萩藩譜録』所収『和智系図』)。
『埼玉苗字辞典』は「新座郡広沢庄根岸村(朝霞市)に和智氏九戸現存、関係あるか。」と記しており、広沢氏の末裔が現代も永続しているようだ。

朝霞第八小学校あたりが現地だが、城館を示すものは残されていない。

 

朝霞第八小学校あたりが現地だが、城館を示すものは残されていない。)

 

  (2016/12/22訪問)

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