小田城

小田城(茨城県つくば市小田)は、十二世紀末に八田知家によって築かれた。

知家は常陸国の守護となり、建久四年(1193)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。四代・時知に至り小田氏を名乗るようになる。鎌倉幕府が亡びると、七代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。治久は延久三年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍した。親房は城中で神皇正統記』『職原抄を執筆した。しかし高師冬に包囲され、翌年には治久は師冬に降り、親房は関城へ移った(『城址案内板』)。

戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。小田氏は永禄十二年(1569)の手這坂の合戦に敗れて土浦へ逃げた。佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって小田城は大規模に改修された(『城址案内板』)。

元亀三年(1572)頃には、小田氏が城を奪還したと推測され、上杉方の太田、真壁、多賀谷氏らに攻められている。氏治は連歌を好み大晦日の年忘れ連歌会が恒例になっていたが、その最中に攻撃され氏治は逃亡するがその後復帰する。しかし、再び大田氏らの猛攻にあい落城、氏治らは自刃し名門小田氏は滅亡したという。

慶長七年(1602)佐竹氏の秋田国替えにより廃城になったとされる。

小田城は本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約21haに及ぶ。本丸部分の約2ha程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知りえる姿になって完成する。
この城は平城として長所を十分発揮して巧妙に設計されている。本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入口には馬出しを設けて、直接進入できないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている(『城址案内板』)。

遺構は良好に残っている。が、廃線路跡が主郭を貫通していたり、郭に沿うようにサイクリングロードが新設されている点は残念。主郭以外の曲輪跡も畑となっていて、個人的には何か雑然としている感がある。


(跡地の航空写真)

(現地縄張図)

 

城址碑(主郭南東端の涼台に建つ)

 

(【左写真】主郭を分断する廃線路(旧筑波線)【右写真】主郭南側土塁(奥が涼台。郭に沿ってサイクリングロードが…)

 

(【左写真】主郭東側を走るサイクリングロード 【右写真】主郭東側の空堀跡(左が主郭で右が二郭)

 

(【左写真】主郭北東の鐘撞堂 【右写真】鐘撞堂の五輪塔 )

 

(【左写真】鐘撞堂脇の空堀 【右写真】涼台から水堀と曲輪群を見下ろす )

 

(【左写真】涼台脇の水堀 【右写真】移築城門(城址付近にある龍勝寺山門)

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