難波田城

難波田城(なんばた★★埼玉県富士見市下南畑)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、室町初期の城で、「下南畑城側」を所在地とし、現状は山林・宅地・畑・水田、自然堤防で、遺構は堀、橋跡・馬出と記している。

武蔵七党の一つ村山党に金子氏がいたが、金子小太郎高範は、鎌倉時代の承久の乱で討ち死。その恩賞として子孫に難波田(南畑)の地が与えられ「難波田氏」を名乗った。戦国時代、難波田善銀は扇谷上杉氏の重臣として活躍したが、天文十五年(1546)河越夜戦で討ち死。後北条氏に降って、難波田の地は北条氏家臣上田氏が支配した。しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたために難波田城は廃城となった(『現地説明板』)。

難波田城は最初小さなものだったが、戦国時代に大規模に改造されたと考えられる。江戸時代には城跡に修験寺院の十玉院が建てられた(『現地説明板』)。

市立公園として整備されており、郭や水堀・土塁が復元されている。どこまで遺構に基づくのかは不明だが、散策に楽しい史跡である。

 

(『富士見市史』掲載の図と1975年の航空写真)

 

(『埼玉の城館跡』掲載の図と写真)

 

(古図と公園案内図)

 

(【右写真】城址石碑。この付近は本郭跡だという。【左写真】本郭から見た曲輪2。土塁も復元されている。)

 

(【右写真】水堀に囲まれた曲輪2。【左写真】曲輪3から見た曲輪2。木橋も復元だという。)

 

(【右写真】曲輪3に見られる食い違い虎口。古図に基づくのだろうか?【左写真】水城だった様子がよく分かる。)

(城址にある修験寺院の十玉院跡の墓石

 

  (2017/5/8訪問)

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城と古戦場 

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