多門氏館

多門氏館(おかど・鶴馬館とも★埼玉県富士見市諏訪)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、鎌倉期の館で、「鶴馬宿2041-2」を所在地とし、現状は山林・宅地、台地で、遺構は堀・土塁と記している。

『新編武蔵風土記稿』は、「屋敷蹟、巽の方にあり、六・七段許の地にて、四方に堀の蹟残れり、地頭多門平次郎が居跡なりと云う」と記している。

『富士見市史』は、「徳川氏の旗本・多門氏の館跡と考えられてきた。それは『新編武蔵風土記稿』から判断されたものであるが、多門氏の館とは考えにくい。」とする。この根拠は館跡が多門氏の領地に比して大規模であるためで、初めは後北条氏家臣上田氏が築いたものであり、江戸時代には宿場が形成され(「宿」との字名が残る)、館跡の一部を多門氏が使用し、その後、川越藩の郷蔵が置かれ、二の丸などは「御林」として利用された、と推察している。

多門氏は、徳川家康の関東入府に伴い、天正十九 年(1591)に領地をたまわり、多門平次郎(平左衛門)成正が館を構えたという(『富士見市史』)。
『寛政重修諸家譜』によれば、三河国額田郡大門の出自で、元は大門氏(おおかど
・だいもん)を称し、後に多門氏(おかど)に改めたという。

近年まで良好な遺構が遺されていたが、一気に宅地化されてほとんど壊滅している。一部に雑木林の名残が残っているが、うろうろ探索できる環境ではない。早晩、すべてが消滅するであろう。往時の遺構がネットで多数公開されているだけに寂しい限りである。

 

 

(1990年の航空写真と『富士見市史』掲載の図)

 

(周囲は一気に開発が進み遺構は破壊されている。)

   

  (2017/5/8訪問)

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