木田余城

木田余城(茨城県土浦市木田余)は、もと木田余台の「城の内」というところにあったが、小田氏の重臣・信太範宗のときにここに移ったといわれている。

天文二十三年八月(1554・異説あり)信太範宗が謀殺されると、小田氏治(十五代)が代って在城したが、天正六年(1578)佐竹義重の再度の攻撃で落城し、義重城郭を破壊し廃城となったとされる(『城址案内板』)。

常磐線により城跡は二分されているが、本丸があった中城・北堀・南堀・横堀などの地名が残っている。朽木氏土浦城主のとき木田余城跡の堙滅をおそれ、宝積寺を本丸跡に移した。
明治三十六年汽車の飛火より同寺も焼失し、旧本丸跡(本堂跡)は水田中に一部畑地として名残を留めていたが、昭和五十九年十二月電留基地の設置によって失われた(『城址案内板』)。

鬼義重に徹底的に破壊されたので、遺構は全くない。線路脇に水田が広がるのみである。


(跡地の航空写真)

(城址碑)

 

(【左写真】線路脇にある案内板 【右写真】周囲は水田が広がるのみ )

 

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