館林城

尾曳城とも。

館林城(群馬県館林市城町)は、城沼に西から狐の尾のように突き出した半島に中心を置く平城で、現在の館林市の中心部に当たる。

築城は、弘治二年(1556)赤井照康によるという説が一般的だが(『日本城郭大系』)、いずれも後年の史料に拠るもので信憑性は疑わしく、不明である。

一方で、文明三年(1471)の古文書に上杉軍が「赤井文六、文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記述があるというが(『現地説明板』)、これは大袋城の間違いである。

戦国時代には、上杉氏、武田氏、小田原北条氏による三つ巴の攻防に巻き込まれた。天正十八年(1590)石田三成率いる豊臣軍に攻められ、大袋山の木を切って沼に投げ込み、二箇所の道を作ったが、翌朝には道は沈んでおり、強攻策は避け、降伏を勧めて開城したという(『日本城郭大系』)。

同年、徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王・榊原康政が十万石で城主となり、城下町を整備、寛文元年(1661)徳川綱吉が城主となり全盛を極めた。彼が五代将軍になってからは将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置付けられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた(『現地説明板』『日本城郭大系』)。

城の建物の大半は明治七年(1840)に焼失。本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。しかし、二の丸は市役所に変わり、ほとんど城郭の面影を失っていると言っても良いだろう。


(跡地の航空写真)

 

(現地案内図)

 

(【左写真】市立図書館脇の城址碑。【右写真】本丸跡。広い芝生の広場になっている。)

 

(【左写真】本丸の土塁跡とされるもの。【右写真】二の丸跡の館林市役所。)

 

(【左写真】三の丸跡の文化会館。【右写真】文化会館脇の千貫門の石碑。遺構は無い。)

 

(【左写真】文化会館の西に復元された「土橋門」。【右写真】「土橋門」を出ると、この有り様。)

 

(【左写真】「土橋門」付近の土塁と復元塀。【右写真】土塁に囲まれた曲輪が残っている。)

 

(【左写真】付近の城址碑。【右写真】左に土塁。すでに周囲は開発され尽くしている。)


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