矢島御所

矢島御所(滋賀県守山市矢島町、矢嶋御所とも)

奈良一乗院門蹟は、永禄八年(1565)五月、甲賀の和田惟政の館を経てこの矢嶋少林寺に入室した。
観音寺山佐々木六角承禎の命に依って建立した館を本拠として、土豪矢嶋越中守に庇護を受け、永禄九年(1566)二月還俗して名を足利義秋と改めた。同年九月、西江州にて三好長逸の乱があり、永く続かなかった矢嶋の館を去ることになる。約一年四ヶ月の居館であった(『現地案内板』)。

この時を界に時代は変わり、徳川幕政下分部二万石の治める矢嶋分城となり、戸田、川田、新庄今浜、小嶋、矢嶋の管理経営本部となり、明治八年には矢嶋温知学校、明治二十四年頃より自治会館となって、昭和五十三年新会館竣工に依り洋風となったという(『現地案内板』)。

一時、足利義昭が居館とした場所だという。城址は自治会館となり、周辺の民家に土塁跡が僅かに残っているらしいが、遺構はほぼ湮滅した。

 (跡地の航空写真)

 

(城跡の自治会館にある城関係の石碑など

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