大溝城

大溝城(滋賀県高島市高島町勝野、鴻湖城とも)は、織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に築城された。

この城は、琵琶湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承される。
そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄
(新旭町)城主・磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(1578)23日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄に宛行い大溝城主としたという(『現地案内板』)。

城主に入った信澄は高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
ところが、天正
十年(158262日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、65日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大坂城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた(『現地案内板』)。

大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和五年(1619)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏にひきつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た(『現地案内板』)。

 

(跡地の航空写真)

(天守台石垣と城址碑)

 

(残存している石垣)

 

(【左写真】天守台内部から曲輪を見る。【右写真】内堀跡。)

乙女ヶ池(外堀)

 

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