中村城

中村城(高知県四万十市中村丸の内)は、一条時代、西に四万十川、東に後川を望み、中村平野を一望できる丘陵に築城された(『現地案内板』)。

応仁二年(1468)京都の戦乱をさけて、前関白・一条教房と、その一族がこの地に逃れてきた。教房は中村古城を修築して国司として居城した。文明十二年(1480)、教房が死に、房家へと代る(『日本城郭大系』)。
しかし、五代・兼定の頃、悪政が長宗我部元親の怒りにふれ、兼定は豊後に追放される。この豊後追放を憤った加久見左衛門は、大岐・江口・橋本・山路・伊与木の各氏などと共に中村城を攻略した。しかし元親はこれらを平定し、中村城には弟の吉良親貞を城代として配置した(『日本城郭大系』)。
一方、兼定は中村城奪還をめざし、伊予の法華津播磨守則延などの援軍を得て栗本城に拠った。しかしこれも元親に攻められ兼定は敗走し、結局は元親の臣・入江左京の手で刺殺されたと伝えられている(『日本城郭大系』)。

この城は一条時代、長宗我部時代、山内時代が混在しており、遺構かどうか断定できない箇所もあるようだが、広大な城郭として良く残っている。

『現地案内板』

総面積10586u東城、為松城、中の森、御城、今城の五郡の城を統合したもので、平野部を東西に通ずる陸路の要を押さえ、南北と西部に至る河川により攻防いずれにも臨機応変の戦いに備えることができた。

為松城の詰(本丸)は約800u(240坪)の広さであったらしい。城主とされる為松氏は、この地方の有力な豪族(国人)の出だが、一条氏の入国以来家臣となっている。しかし、一条政権の滅亡と共に所領を失い、歴史から姿を消した。

中の森に残っている石垣は、昭和40年に発見されたもので、山内2万石藩主山内政豊(別名良豊)時代の慶長十八年(1613)、新たに中村城として修復された時のものだと思われる。この城の詳細は不明だが、翌々年の元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、以後修復されることはなかった。

東ノ城跡は一条氏一門の西小路氏の持城と考えられている。面積は約200u(約60坪)程度であったと思われる。一条政権が滅び、西小路氏も中村を退去すると城は荒廃し、山畠となった。現在は、地形が変化し、かつての城の面影はほとんど無いが、わずかに土塁の一部が残っている。

 

 

(【左写真】為松城の詰(本丸)跡。 【右写真】本丸に残る僅かな土塁。 )

 

(【左写真】二の丸に建つ残念な模擬天守…。 【右写真】二の丸を囲む土塁。 )

 

(【左写真】東ノ城跡。大体現在の三の丸付近であるという。 【右写真】堀東ノ城跡に残る僅かな土塁。)

 

(【左写真】中ノ森の石垣 【右写真】城跡遠望 )

 

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