安芸城

安芸城(あき・高知県安芸市土居)は、鎌倉時代の延慶元年(1308)安芸親氏によって築かれたという。

安芸氏はこの地方の有力な豪族の一人で、戦国時代には土佐七雄の一人といわれた。

城は安芸平野のほぼ中央の小高い丘にあり、本丸(詰の段)からは平野が一望できる。東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があって、これらを外堀とした天然の要害であった。また、内堀を掘った土で土塁を築き城壁とし、南の大手門には枡形の広場もみられる(『現地案内板』)。

永禄十二年(1569)七月、安芸城は圧倒的な長宗我部軍に包囲された。敵に背後をつかれ、不覚をとりながらも安芸勢は城を打って出ては奮戦、籠城二十四日に及んだが、ついに城の東安芸川の対岸の岡より火矢を放たれ、城は炎上した。
この間敵に内通するものあり。機をみて城の井戸に毒を投じ、長宗我部の陣に走った。為に城内の兵ら倒れる者多数、士気は著しく衰え、覚悟を決めた城主・安芸国虎は、残された全将兵と領民の助命を条件に、自らは菩提寺である浄貞寺に入り自決した。
その後三十年間、長宗我部氏が支配したが、慶長六年(
1601)山内一豊の土佐入国とともに山内氏の重臣、五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構えた。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって周辺が整備され、今に至っている(『現地案内板』)。

本丸跡には歴史民俗資料館がある。山内時代ではあるが水堀と石垣に囲まれた趣のある城跡であるが、城外も風情がある侍屋敷が残り、町並みを歩きながら攻城した。

 

  

(【左写真】本丸内にある城山の石垣。 【右写真】本丸を囲む土塁と石垣。 )

 

(【左写真】内堀。 【右写真】枡形門。)

 

(【左写真】枡形門の石垣。 【右写真】毒井戸跡(内通者が毒を投じた井戸跡)

 

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