足守陣屋

足守陣屋(あしもり・岡山県岡山市北区足守)

足守藩祖・木下家定は、もと杉原家定と称していたが、実妹「ねね」が豊臣秀吉の正室(大政所)であったので、秀吉の立身出世に伴って一族に所遇されて、木下、続いて羽柴を、そして豊臣姓を名乗ることと、豊臣家と同じ菊花紋と五七桐紋の家紋を使用することも許されていた。
秀吉の死後、慶長五年(
1600)に起きた関ヶ原合戦のときには2万5千石を領有して姫路城主となり、ねねを守護して中立の立場をとり、徳川家康の天下となった後の慶長六年(1601)三月に、備中賀陽郡と上房郡内に同じ石高で移封されて、足守藩を立藩することになった。
家定が慶長十三年(
1608)に死亡した後、徳川家康が長男勝俊と二男利房の二人に遺領を継ぐように命じたが、ねねが勝俊一人に相続させようとしたため、翌年に足守藩木下家の領地は没収されて、浅野長晟が藩主に封じられた。その後に長晟は和歌山藩主に転出して、足守藩領は幕府の直轄領となった。ほどなく元和元年(1615)の大阪夏の陣の後に、家康の幕下に属していた木下利房が再び足守藩主に封じられ、6年目にして足守藩主木下家は復活し、以後明治維新に至るまで存続して13代の藩主を数えた。
利房は宮路山南東山麓のこの地に築造した藩主の居館の屋形構(御屋敷)を中核にして、藩庁や侍屋敷さらには町家の整備を図って、治所の建設に努め、
5代藩主利貞のときに足守藩陣屋町の完成をみた(『現地説明板』)。

陣屋跡の遺構は僅かですが、周辺には侍屋敷や古い町並みが残っていて良い雰囲気でした。

 

  

 (【左写真】石垣と水堀が残る。【右写真】隣接する藩主庭園(近水園)

  (2010年8月26日訪問)

 

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