舞鶴城

舞鶴城(鹿児島県霧島市国分中央)は、国分市の市街地区の東の端に位置し、現在の国分小学校と国分高校の運動場が城址一帯である。

慶長九年(1604)十二月、島津義久は在城十年にわたった富隈城よりこの地へ移城した。

天正十五年(1587)、義久の弟義弘が関ヶ原の戦で、戦い利あらずとみて中央突破の退却作戦を成し遂げた翌年より舞鶴城の構築は始められた。肥後の加藤清正の隆盛に脅威を感じていた義久は、国分の地をそれに対抗するにふさわしい地と判断したのであろう。舞鶴城は、鹿児島の鶴丸城が完成するまで島津氏の本拠としての役割を果たしている。

現在、南辺に幅6.5mの堀が残り、また、長さが9m、幅が3.6m2.7mの二つの石橋が現存するが、古図にみあたらないのでこれは江戸時代のものと思われる。そして、石垣がわずかな傾斜をみせながら野面積みの技法で3m程度の高さを持つものが残っている(『日本城郭大系』)。

現在の国分小学校・高校が城跡で、一部に石垣と水堀が残る。

 

 

(国分小学校前にある城址碑)

 

 (【左写真】石垣と水堀.。【右写真】朱門。城内にあったものを移転修復した。)

  (2010年9月15日訪問)

 

戻る

城と古戦場 

inserted by FC2 system