大洲城

大洲城(★★★愛媛県大洲市大洲)

愛媛県大洲市中心部の肱川沿いにある平山城。鎌倉末期、宇都宮氏が築いた地蔵嶽城にさかのぼる。秀吉の命による小早川隆景の伊予平定後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治らが在城。元和三年(1617)、伯耆米子から加藤貞泰が6万石で入り、加藤家は明治の廃藩置県まで13250年続いた。天守は明治中期に取り壊されたが、平成十六年(2004)九月、木造4層の天守が完成、公開が始まった(『名城をゆく』)。

南北朝時代の元弘元年(1331)に伊予の守護職に任じられた宇都宮豊房が築城した。宇都宮氏は鎌倉時代に下野国より移住して土着した。八代豊綱のときに長宗我部氏と通じ河野氏と戦うが、毛利の救援軍を得た河野軍に破れ降伏。その後宇都宮家臣の大野直之が城主となり長宗我部氏と戦う。

秀吉の意を受けた小早川氏の伊予侵攻時に開城。文禄4年(1595)に藤堂高虎が宇和島城主となると、その支城となり藤堂氏の支配下におかれる。慶長14年(1609)淡路洲本から脇坂安治が5万石で城主となり城の大修築を行う。元和3年(1617)大阪の陣の戦功により加藤貞泰が米子から6万石で入封し、明治まで至る。

現存する4つの櫓がある他、平成16年9月に4層4階の天守を復元した。この天守は藤堂時代のものか脇坂時代のものか意見が分かれるらしいが、脇坂時代の方が有力であるらしい。天守は安治が淡路洲本から移築したもので、地名も元々の「大津」から洲本にちなんで「大洲」に変えたという説もある。

計画から10年近くかけ、当時の技術を再現させて完成した木造の復興天守が素晴らしい。現存する4つの櫓と天守の規模から、とても6万石の城とは思えないほどである。また城の背後に肱川が流れており天然の要害となっている。古絵図や写真をもとに忠実に再現した天守が見事です。古い町並みも残り、城下町の雰囲気が残っております。

 

  

 (【左写真】復元天守(絵図や古写真をもとに正確に再現。右側は台所櫓)【右写真】本丸の石垣。)

 

(【左写真】本丸から肱川を眺める。【右写真】二の丸にある苧綿櫓(現存)

 

(【左写真】二の丸御殿跡の石垣。【右写真】三の丸にある南隅櫓(大洲城に現存する最古の建物)

 

(【左写真】下台所(現存のもので、城内の食料庫として機能)【右写真】御門番長屋(絵図をもとに再建された)

 

(【左写真】高欄櫓(安政の大地震で倒壊し、万延一年(1860)に再建)【右写真】台所櫓(高欄櫓と共に倒壊したものを、安政六年(1859)に再建)

 (2011年1月13日訪問)

 

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