豊後 高田城

高田城(★★ 大分県豊後高田市玉津字本丸)は、建久七年(1196)、大友氏の豊後下向に随従した高田掃部介重定が築いたと伝えられるが、当時は小規模な城であったと思われる。

豊臣秀吉は高田氏の跡に、智将として名高い竹中半兵衛の子の竹中伊豆守重隆を封じた。文禄二年(1593)のことである。重隆は翌三年から城の増修築に着手して現在の規模に拡大した。
徳川家康は慶長六年(
1601)、竹中氏を府内(大分)に移封し、松平重直を豊前龍王城から入城させた。重直が高田城に入ったのが寛永十六年(1639)というから、三十八年間も空城の時代が続いたことになる。重直は竹中氏の時代に完了していなかった城郭増修築工事を再開したが、在城七年にして木付城に転封された。

その後の高田城は廃城同様となって二十四年間荒れるにまかされていた。寛文九年(1669)、丹後福知山の城主松平忠房が七万石で長崎県の島原城に転封されると、その飛地として豊後の高田・田染・都甲の地一万五千石を加増され、高田城の本丸の地に陣屋を設けた(『日本城郭大系』)。

城址本丸跡は桂陽小学校・中央公民館の敷地となっており、石垣・土塁・水堀が残る。

 

 

(水堀の一部が残る)

 

(公民館南側に残る石垣・石段)

 

  (2011年4月1日訪問)

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城と古戦場 

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