鳥取城

鳥取城(★★★ 鳥取県鳥取市東町)は、鳥取市北東の標高263mの久松山を中心とした山城。「久松城」とも称する。

山頂に山上の丸、麓に二の丸・天球丸・三の丸などが配された。天神山城を拠点に因幡を統治した山名氏の出城として、天文十四年(1545)に山名誠通が築いたと伝わる。

天正九年(1581)、当時の鳥取城主山名豊国は、同盟を結ぶ毛利氏に背いて羽柴(豊臣)秀吉に降ったため、家臣に追放されたともいう。代わって吉川経家が入城するが、秀吉の兵糧攻めで自刃。関ヶ原の合戦後、姫路城主池田輝政の弟・池田長吉が城主となり、山上・山下の城域を拡張した。寛永九年(1632岡山城に転封した池田光政に代わって池田光仲が入り、以後、鳥取城下は光仲を藩祖とし、直系子孫によって明治まで12代238年間続いた(『名城をゆく』)。

山麓の池田氏時代の遺構は整備保存作業が進み、見応えがある。山上の遺構も石垣が補修されていた。山登りは厳しいが、やはり山頂からの眺めは絶景。以前の貴殿の訪問時より、山麓・山頂ともに石垣の整備補修が進んでおり、天守の復元計画もあるらしい。

 

 

  (【左写真】天球丸跡(二の丸東北の高見にあり、池田長吉の姉・天球院が居住した。)【右写真】天球丸三階櫓の礎石跡(左側)

 

  (【左写真】復元された天球丸の巻石垣(文化四年(1807)に崩落防止の目的で築かれた)【右写真】二の丸菱櫓跡(2層の櫓が建っていた)

二の丸御三階櫓跡石垣(山上の天守が焼失した後は、鳥取城の象徴に)

 

  (【左写真】三の丸跡(現在は鳥取西高校の敷地となっている)【右写真】太鼓御門石垣(三の丸の入口))

 

  (【左写真】古写真(左が御三階櫓で右が菱櫓)【右写真】水堀)

中ノ御門(大手門)跡

 

  (【左写真】天守櫓跡(現在は石垣のみ残る)【右写真】天守からの眺望(電波塔のある左手前の山が雁金城で、その置くが丸山城))

 

  (【左写真】山上ノ丸本丸跡(天守・櫓群・井戸があった)【右写真】山上ノ丸二の丸跡)

 

  (【左写真】山上ノ丸石垣本丸跡【右写真】城址遠望)

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標高263m、比高259m。

鳥取市街からひときわ険峻さが抜きん出ている久松山の全域に屹立する山城。天文十四年(1545)に築城した山名誠通の時代から、宮部継潤が山麓に居館曲輪を整え、天正九年(1581)吉川経家が入城。経家は「首桶」を持参しての覚悟の入城であった。

間も無く名高い羽柴秀吉による鳥取城攻めの舞台を向かえる。陸路・川筋・海路いずれも徹底的に封鎖し、渇餌殺しといわれる凄惨な兵糧攻めを実施。吉川軍が尾根伝いに支城を並べたというが、太閤ヶ原の秀吉軍の包囲網には衆寡敵せず、飢餓地獄の果て城主・吉川経家は自刃し、開城した。

今でもその難攻不落ぶりは険しい山道で体感できる。しかし著名な城だけに登山する歴史ファンは多い様だ。全国有数の峻険で過酷な山登りを克服した後、頂上の本丸址からは日本海や鳥取市街が一望のもとに鳥瞰できる。

 

  (2012年9月23日訪問)

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