米子城

米子城(★★★ 鳥取県米子市久米町)は、伯耆国守護山名教之の配下、山名宗之によって応仁年間から文明年間(14671487)に築かれたと伝えられる。

その後、天正十九年(1591)には、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、関ヶ原の戦い後、吉川広家が岩国に転封となった。このため、新たに伯耆十八万石・米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長七年(1602)に完成させたとされる。

絵図によると米子城は、天守と副天守(四重櫓)に二つが並ぶ威容を誇っている。一説によると、四重櫓は天守に先行する古い時代のもので、吉川時代のものとも尾高城から移築したものとも伝えられる。中村氏により、城下町を含め整備された米子城であったが、中村氏の改易の後、慶長十五年(1617)に加藤貞泰が入城、そして、加藤氏転封後は、池田光政一族の池田由之・由成と城主が頻繁に入れ替わる。池田光仲が寛永九年(1632)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩家老の荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治になって天守閣を始めとする建物全てが取り壊された。
米子城は、山上に本丸、内膳丸、山裾に二の丸、三の丸を配して水濠(現在は埋め立てられている)で囲んだ典型的な平山城で、近世城郭として、その歴史的価値は高い(『城址案内板』)。

見事な石垣群と山頂からの絶景が楽しめる。

 

 

 

  (【左写真】天守台跡石垣(中村一忠が従来の天守とは別に、4層5階の天守を新たに築いた)【右写真】副天守台跡(吉川広家が4層4階の天守を築いた)

  

  (【左写真】本丸石垣(右が大天守跡で左が副天守跡)【右写真】本丸からの絶景)

  

  (【左写真】本丸から眺める内膳丸(家老横田内膳が担当して構築、二重櫓数棟があった)【右写真】鉄御門跡(天守の入口を防備する鉄張りの2階建ての門があった)

  (2012年9月25日再訪問)

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築城年代ははっきりしないが、永禄九年(1566)に毛利氏が尼子氏の本拠・月山冨田城を落城させた後に、その備えとして守将を置いている。

永禄十二年(1569)尼子遺臣が再興を目論んで攻め込んだが撃退されている。伯耆での毛利氏の勢力が安定化すると、不便な月山富田城から本拠を移す為、天正十六年(1588)月山冨田城城主の吉川広家が改修して再築城。

その後、関が原の合戦後は中村一忠が入城したが、彼は威勢を誇るべく、吉川氏時代の四重天守の横に五重の天守を築いたという。よって一時期は天守閣がふたつ存在する事があった。一忠の老臣・横山内膳が中村氏一族に暗殺された時は、その子が三の丸に立て籠もったが、堀尾吉晴の援軍を得て事態を収集している。明治維新後、米子の豪商に安値で売られ、ことごとく建物は解体されてしまった。

 

(全景と本丸址。石垣はよく残り、本丸址からの展望は非常に良い。)

 

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