伊達城

伊達城(★埼玉県さいたま市見沼区大和田町1丁目)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、戦国期の館跡で、「大和田1-346」を所在地とし、現況は老人ホーム・台地で、遺構は堀と記している。

岩槻城主太田氏の家老・伊達与兵衛房実が居城した。天正十八年(1590)豊臣秀吉小田原の役で降り、徳川家康の時代に大和田村に250石を賜り、隣接する大和田陣屋を設けて転居したという(『寛政重修諸家譜』『埼玉の古城址』)。

『関八州古戦録』によれば、伊達氏の祖の伊達与兵衛は、元是房州安房郡鶴ヶ谷の八幡宮(館山市八幡)の神職の子だったという。

『埼玉苗字辞典』によれば、もとは安房国出身の出稼衆で、家康の臣で遠州高天神(静岡県小笠郡大東町)の城主小笠原氏に仕へ、家康の娘督姫に従い小田原城主北条氏に仕えたという。

『大宮市史』によれば、老人ホーム建築にあたり発掘調査が為され、弥生時代中期の住居跡四軒、宮ノ台式壷形土器、甕形土器破片が出土したという。

『新編武蔵風土記稿』の大和田村条には、「当村古は、岩槻太田氏の臣伊達与兵衛房実が領せし所なりと。御打入の後、御料となり正保の頃に至りては伊達庄兵衛知行たることものに見ゆ。今も子孫庄左衛門が知る所なり。また小田原記・天正十八年岩槻城攻めの条に、岩槻城の本丸は伊達与兵衛、二丸には妹尾下総守云々。妹尾下総守・片岡源太左衛門討死しければ、残る大将伊達をはじめ降人に成りて城を渡しけると云々、かくの如く見ゆれば、伊達与兵衛御味方に降りてのち、旧領によりて再びこの地を賜りしなるべし」と記されている。

現地は、老人ホーム「やわら樹の里」となっており旧状をうかがい知ることはできない。ホーム入口右の林の疱瘡神を祀った小祠が伊達城の唯一の名残だという(『埼玉の中世城館跡』)。

 

  

(伊達城と寿能城の位置取り。『大宮市史』より)

 

(【左写真】城跡。老人ホームとなり遺構は見られない。【右写真】城址西側にある説明板。城の記載はない。)

 

  (2016/1/3訪問)

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