蕨城

蕨城(★埼玉県蕨市中央4-21

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、戦国末期の館跡で、「中央5-1-17」を所在地とし、現状は宅地・公園、自然堤防で、遺構は土塁・堀と記している。

『蕨市史』は、南北朝時代、渋川義鏡の築城で、その下向後、渋川氏ゆかりの蕨郷に板倉氏らの家臣により築かれたとするが、時期は明確でないという。また城の位置も蕨御殿町説と戸田元蕨説があると記している。

『鎌倉大草紙』は「長禄元年六月二十三日、渋川左衛門佐義鏡を大将として武蔵国へ被指下、是は公方の近親にて代々九州探題の家なれば、諸家も重き事に思ひける。上祖父左衛門佐義行は久しく武州の国司にてあり、其時より足立郡に蕨と云所を取立居城にして、今に至る迄此所を知行す」と記している。

『本土寺過去帳』に「大永六年六月・武州蕨自落城・此伊勢守氏綱の家風なり」「皆伊勢守氏縄・武蔵蕨自落城・大永第六年六月」等と記され、北条氏綱の傘下にあった事実が確認される。

『新編武蔵国風土記稿』は、字名を要害、蕨の御所、城址と称し、平地に堀切や土居があり、中央に御主殿と呼ばれる祠があったといい、その由来・祭神は不詳としている。また「当所は南北両朝の頃、渋川左衛門佐義行居住せしことは土人も云伝へ、又其頃の記録にも見へたり、其より子孫続きて天正の頃まで領せしなるべし。相伝ふ、昔渋川左衛門佐・此の地に住して蕨左衛門と称し、其の後、代々相継いで住す」と記している。 

『埼玉県史料』は、主郭は土居・堀を有し、約126m四方で方形館の形状だったという。

馬出があったという史料も見られるが、近世初頭(江戸時代)に御殿が築かれ改変を受けたらしく、城の範囲を特定することは困難で、「確定するには資料は乏しい」と『蕨市史』は記している。

現在は城址公園と和楽備神社(わらびじんじゃ)となっている。水堀跡という池が見られるが、全体的に遺構はよく分からない。

 

弘化三年(1846)頃の「蕨御殿の図」) 

 

城址碑が充実している。)

 

(【左写真】池は堀の跡だといわれる。【右写真】「御殿堀」とされているようだ。

 

(【左写真】ここは郭の跡だろうか。【右写真】和樂備神社が隣接している。城の守り神だったという。

 

  (2016/4/29訪問)

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