戸田城

戸田城(★埼玉県戸田市上戸田)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)は、室町期の館跡で、「上戸田2-9-7」を所在地とし、現状は宅地・公園・寺院、自然堤防で、遺構は土塁・堀と記している。前谷遺跡として発掘され、「左衛門屋敷」「竹の内」などの別称があるという。

『新編武蔵国風土記稿』は、戸田城について、「屋敷跡 村の未申の方にあり。百姓長十郎が持なり。桃井播磨守居住せし邸跡なり。故に土人「戸田の御所」と呼べりと云う。ここに稲荷の祠あり。これを御屋敷稲荷と呼ぶ」と記している。
また、隣町である蕨宿(蕨市)について「古は隣村戸田村の内にて、今小名「元蕨」というところにありしと云う」と、蕨宿はもともと戸田村にあったと記している。

このことから、戸田御所(戸田城)は、古くは蕨郷であり、後に蕨城に改修されたという「戸田元蕨説」が主張され(『蕨市の歴史』)、『蕨市史』『戸田市史』も、南北朝時代、渋川義鏡が関東下向した際、蕨郷に築城した城について、蕨御殿町説と戸田元蕨説があると記している。

『戸田市史』によれば、戸田御所には土塁と空堀の一部が残存しており、発掘調査(前谷遺跡)によって薬研堀が検出され、館跡であった可能性を指摘している。

『日本城郭大系』は、「市内には、他に桃井屋敷(百の井屋敷)と呼ばれる所があり、海禅寺などもそこから移されたもので、その開山は桃井氏よりも古いといわれている。したがって、城主も鎌倉時代の豪族・戸田六郎と考える説もある。」と記している。

桃井氏の祖先は足利義兼の四男遠江守義胤だという。桃井播磨守直常は貞治五年(1366)、越中国にて討死したと伝わる(『桃井家譜』)。南朝北朝戦争の頃に武名を果たし『太平記』『南方記伝』等に名前がみえる。『埼玉苗字辞典』の茂木和平氏は「思ふに父直常打死の後、当国に潜居せしにや」と記し、多福院、海禅寺の過去帳に桃井氏の名が確認されるという。しかし、桃井氏が戸田村へ来た史料は無く、『新編武蔵国風土記稿』は「桃井播磨守が開基の寺あるを以って考るに、古は彼所領なるべし。」と記している。

現在の光明寺付近が跡地と考えられる。近年まで見られたという遺構は市街地に飲み込まれて壊滅してしまった。

 

『埼玉の中世城館跡』掲載の遺構図)

(空堀の遺構が残っていた場所。現在は何も無い。)

 

『戸田市史』掲載の空堀と土塁、右は前谷遺跡(戸田城の一部)の薬研堀。)

 

(【左写真】光明寺。この付近に遺構が集中していたようだ。【右写真】光明寺北の公園付近も城内だったのだろう。)

 

  (2016/4/29訪問)

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